座禅続けてます

等ブログのカテゴリ《禅の友?》としての投稿は久々になります。

 

これまで毎月第一日曜日に参加していた菩提寺の《参禅会》ですが、

昨年7月から都合で参加出来なくなっておりました。

 

その代わり

その後は、毎週月曜日の午前5時半より30分、母の供養もこめて自宅仏間にて座禅を続けております。

 

先週までは室内はまだ薄暗く、照明をつけて座ってましたが、

今朝はかなり明るくなってきましたので照明はつけず《燈明》の灯りのみで座りました。

なにか本堂で座っていた雰囲気を感じて懐かしく、厳かな気持ちで座らせて頂きました。

 

 

明歴々 めいれきれき 「禅林句集」

 

「明歴々、露堂々」禅の指し示す真理は、一見すると深く難しいものに見えます。

そこに至る修行も厳しく容易に人を寄せ付けないところがありますが、いざ究極の到達点に立ってみると、それはごく簡単で一見平凡なものにすぎません。

真理の世界は特別な物ではなく、いつも私達の目の前にあるのです。

11月の参禅会

今朝は11月の『参禅会』

空はすがすがしい秋晴れ、そんな中決して冷たくも無い北風が吹き荒れる、何とも例えの無い天気の中、心静かに座ってまいりました。

 

9月、10月、11月の法話・参禅会カードの内容は道元禅師の書かれた『典座(てんぞ)教訓』に記された《三心》についてです。

《典座》とは、修行道場の台所においての料理長の事。その典座職に就いた役としての心構えが《三心》・・・喜心 老心 大心

 

喜心(きしん)

天上界(快楽のみの世界)に生まれたり、地獄・餓鬼・畜生・修羅界(苦しみのみの世界)に生まれていれば、道を求めて発心(ほっしん)する機会かない。苦しみと楽しみの相半ばする人間界に生まれたことは何にもまして悦ばしいことである。どうしてこの大因縁を喜ばずにいられようか。

人間に生まれたことをまず喜びなさい "喜悦の心"

 

老心(ろうしん)

いわゆる老心とは、父母の心である。たとえば父母が一人の子を想うように三宝を心に念ずること。貧しい者も、行き詰まっている者も、親は一途に愛しみ育てる。典座は、水を見、米を見る上で親が子を養う時のような慈しみの心を持つべきである。

"慈悲の心"

 

大心(だいしん)

大山のような高く大きな心、大海のような広く深い心を持ち、一方に偏った考えをせず、一つの思いに固執することのないおおらかな心を言います。

"寛大な心"

 

 

四月の『参禅会』

今朝は四月の《参禅会》、座ってきました。
(参禅会の投稿は久しぶりの様な・・・)

先月から初めての方が見え始め、今朝も二名お見えになりました。
初心者の方が増えた為か、又、四月は新年度の始まり、
御住職から改めて『普勧座禅義(ふかんざぜんぎ)』を読んで聞かせていただきました。
『普勧座禅義』・・・道元禅師が座禅について書かれた書

座禅は『只管打坐(しかんたざ)』ただ座る。
ただ座ると言ってもぼ〜っと座るのではありません。
「調身・調息・調心」、姿勢を調え、呼吸を調え、心を調えて正しく座ります。



『看脚下』(かんきゃっか)  『正宗贊』
足元にご用心。情報にあふれた現代はとかく頭でっかち、時に立ち止まる事も大切です。
今いるところをおろそかにせず、一歩を進める。
人生の足下、今の自分を見失ってはいけません。

八月の『参禅会』

 今朝は『参禅会』、座ってきました。

この時期は毎年のことながら汗との格闘です。
わずかでも《風》があれば良いのですが、
今朝の堂内は無風、
私にとっては《蒸し風呂》状態、汗がとまりません。


今回の《参禅会カード No170》の言葉は

  任運騰々 にんうんとうとう

《任運》とは成行き任せの事で、《騰々》はゆったりとした気持ちの事。
先々の事をあれこれ悩んでいないで、ゆったりとした気持ちで今やるべき事をやってゆけば、自然に物事はうまく運んでいく、という意味。
禅門では、特に禅定 (ぜんじょう) や解脱 (げだつ) にあって心をはたらかせず、一切を在るがままになげだして、しかもこだわりりなく自由自在な境地を言う。(任運自在)


以前、自転車でロングライドやヒルクライムをやっていると《先》を考えながら走ってました。
(あとどれくらい走るのか)・(頂上まであとどれくらいか)などと。

TV番組の中でプロ選手のアドバイスで
「初心者の方は、あまり先を見ない方が楽ですよ。」
と聞いた事があります。
それからは、つらい時は先を考えずに、今走っている目先、ペダルの一こぎ一こぎに集中して走る様にしています。
すると、あっと言う間に目的地についてしまう。そんな気がします。

正に《任運騰々》です。

五月の『参禅会』

今朝は五月の参禅会です。
本日の天気は
予報では行楽日和との事でしたが早朝は曇り空、
それでも次第に日差しが強くなり、
参禅の時間には正に行楽日和となりました。

朝方であれば、気温もまだ上がらず、
五月ならではのすがすがしい空気の中
静かに座ってまいりました。


荒草會不鍬 こうそうかってすかず
          (臨済禅師 「臨済録」)

「草取りなんぞしたこともない。」の意。
教え通りに雑草を煩悩になぞらえて、いちいち抜く必要などない。
世の中に不必要なものはない。心を無理に抑えるのではなく、
自然体の心のありのままに構えれば、煩悩の火も静まってゆく。

二月の参禅会

 昨日の朝は二月の参禅会の日、座ってきました。

昨年中は何かと行事が入ってしまい、なかなか参禅会に出席する事が出来ませんでしたが

今年は少し時間に余裕が出来そうなので毎回出席したいものです。


二月は一年で一番冷える時期。

ここ数日、かなり冷え込んだ日が続いてましたので、

万全な着込みをして座りました。

座り始めてしばらくは思った程の寒さは感じませんでしたが

十分程たった頃から手足の指先が冷たく・・・

あと何分かな〜・・・


そんな事を考えてしまうのでは

やはりまだまだです。



参禅会カードNo164


掬水月在手 水を掬(きく)すれば月は手に在り 

                        (干良史「春山夜月」)


「掬水月在手、弄花香満衣(花を弄(ろう)すれば香衣に満つ)」

ふと水鉢の水を両手で掬うと、掌の中に鮮やかに月が輝いている。

道の傍らに咲く花にちょっと戯れると、その香りが衣に移り、いつまでも花の香りを楽しむ事が出来る。

水を掬(すく)えば仏法の光が輝き、花を弄(ろう)すれば仏法の教えに触れる事が出来る。

いつでも、どこでも、見るもの、聞くもの全てに仏法の真理がありありと顕(あらわ)れている。

私たちはそれに気づかずにいるだけだ。





8月の参禅会

今朝は8月の『参禅会』でした。
前回坐ったのは4月、
5・6・7月は都合で参加出来ずに4ヶ月ぶりの参禅です。

久しぶりに坐ったせいか妙に体に力が入り、
堂内は涼しいはずなのに汗が噴き出してきます。
もともと根っから汗かきの私ですが
『心頭滅却すれば火もまた涼し』を心がけて
汗と格闘の30分でした。

堂内には《施食棚》が準備されていました。
もうすぐお盆ですね。



銀椀裏盛雪 (ぎんわんりにゆきをもる)

銀のお椀と雪、どちらも白色です。
見ただけでは区別のつきにくいもの、でも二つのものは、はっきりと違うのです。
何事も外見で判断してはいけないのです。
五感を研ぎ澄まし、ものの本質も見極めなければいけません。

平成二十六年 最初の『参禅会』

 今朝は平成二十六年最初の一月の『参禅会』でした。

昨夜は風が強く、寝ていても顔がピリピリと指すように空気が冷たく
(明日の参禅はキツイかな〜)と思っておりましたが、
いざ坐って見るとそれ程の寒さでもなく、

『調身・調息・調心』

を心がけて
年初めの参禅、心静かに坐ってまいりました。



君看此花枝 「君看ずやこの花枝」

このさりげない花の枝が見えますか? と言う事。
目立つものだけを見ていたのでは、ささやかな美しさを見逃してしまうかもしれません。
何気ないけれど、大事なものを見落としたり、見失うことがないように。




『摂心会(せっしんえ)』

 この時期(12月1日〜7日)、曹洞宗大本山永平寺・総持寺をはじめ、各修行道場では『 蝋八摂心 (ろうはつせっしん) と言う坐禅三昧の修行が行われています。
『蝋八摂心』とは、お釈迦様がこの七日間、菩提樹の下に坐り続けて八日目の朝、明けの明星を見て悟りを開かれたという古事に習い、実践する修行の事です。

栃木県曹洞宗青年会では、六年程前から『摂心会』として坐禅会を行っていたそうですが、せっかくなので一般の方々にも坐禅に親しんでいただこうと、三年前から県内三ケ寺を会場として今の一般参加の『摂心会』を企画したそうです。
そして今回、本日第一日目が我が菩提寺の《光真寺》という事で、私も参加してまいりました。


スケジュールは
17:30 受付
18:00 坐禅作法説明
18:30〜坐禅(30分)
休憩をはさみ
19:20〜同  20:00〜同
終了後夜食をいただき
21:00解散

毎月の『参禅会』では同じ30分の坐禅を一回。
休憩をはさむとは言え、今回はその三倍の時間ですのでどうなる事かと不安はありましたが、

いざ坐って見ると、朝の坐禅に比べて意外と坐る事に集中出来てます。
各三回とも時間が短く感じられた位です。
休憩時に知人の方と話をした処
【物音が無く静かである】
【朝だとその日の用事を考えるなどの雑念が浮かんで来るが、夜だとそれらが無い】
からではないか? との結論に。

又、坐禅が終わり、休憩の前に行う《経行(きんひん)》も初経験。
《経行》は坐禅で緊張した体を解す意味もあり、《歩く禅》なのだそうです。
一列に並び、一呼吸に半歩づつ、静かに堂内を歩きます。

そして最後に皆で『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ) 』を唱えます。
『普勧坐禅儀』は、高祖道元禅師の書いた言わば《坐禅の教科書》。
文章が難しく、あまり意味が解らないので後で解説書を読まなければなりませんね。


明日の二日目は真岡市の《芳全寺》、三日・四日目は日光市の《高徳寺》で行われます。
時間があれば参加したいのですが、この時期お約束の俗世の行事がつまっていてそうもいきません。
来年、近くのお寺が会場になったら是非参加したいと思います。

10月の『参禅会』

 今朝は10月の『参禅会』でした。

境内では、昨日開催予定だった幼稚園の運動会が本日に順延になった為に
賑やかな音につつまれての参禅になりましたが、
そんな中、御住職から次のようなお話をいただきました。

「禅問答にこの様な話があります。
ある風の強い日に外の旗がバタバタと音をたてておりました。
弟曰く、「この音は《旗》が音をたてているのか《風》が鳴っているのか。」
師曰く、「その音は己の心の音である。」
坐禅の基本《整心》とよくお話しますが、本日はこの様に賑やかな中での参禅となりましたが、どうぞこの音にとらわれずに、静かな心で坐ってください。」

私も坐り始めて数年、その辺の処は十分に心得ていますので
今朝の坐禅は時間が短く感じる程心静かに坐れた用に思います。
(と言う事は、いつもは雑念多く坐っているのでしょうか? (笑) )




莫妄想 まくもうそう

「妄想すること莫れ」過ぎた事を思い悩んだり、これから先のまだ起きていないことをあれこれ心配してそれに縛られてしまってはいけない。と言う事。
禅宗では、迷いの原因を言葉に囚われた悪しき思慮分別に求め、そこからの脱却を指導する。
唐代の汾州無業(ふんしゅうむごう)禅師が修行者の様々な質問に対して、いつも《莫妄想》と応じたことから広く用いられるようになった。